株価変動リスク
株式を投資対象とする株式投資信託は株価が下落した際に基準価額が下落する場合があり、このことを株価変動リスクといいます。
株価は、政治・経済情勢、発行企業の業績や市場の需給等を反映し常に変動します。従って株式の組入れ比率の高いものほど株価の変動による基準価額の影響を大きく受け、組入れ銘柄の株価が下落した場合は基準価額が大きく下落する要因となります。
M&Aの三題噺が原作。三題噺とは、寄席で客から三つのお題を貰い、それらを絡めて、その場で作る即興の落語である。ある日のテーマが、「酔漢」と「財布」と「芝浜」だった。ここから生まれた三題噺がベースとなって、その後本作が成立したとされているが、『圓朝全集』に収録されていないことや圓朝以前に類似の物語があることから、この説を疑問とする声もある。 少なくとも19世紀中には「芝浜」として演じられた記録がある。
『芝浜』を演じた噺家は多いが、「芝浜の三木助」と謳われた三代目桂三木助が1950年代に演じたバージョンは特に高名である。というよりは「ぞろっぺい」の三代目三木助をして名人たらしめたのは芝浜といっても過言ではない。
この演出には、落語評論家として知られ三木助と親しかった作家の安藤鶴夫がブレーンとして携わったと言われている(読売新聞連載記事「名作聞書」には三木助の「芝浜」が釈注つきで収録されている。
住宅ローンの「芝浜」の魅力は二つある。ひとつは絵画のように情景を写し出す描写力である。三木助は「落語とは何か」と問われて、「落語とは絵だ」と答えている。つまり、演者が丁寧に描写する絵(映像)を、聴き手に鮮明に見せる事こそが重要だ、と主張したのである。
三木助の理論に従えば、魚屋が市場にやってきた場面に於いて、夜が明けて朝日に照らされた真白い浜、静かに揺れる穏やかな波、周囲に建物も何も無い美しい芝浜を聴き手に見せる事ができるか否か、が本作の真髄であり醍醐味と言うことになる。『芝浜』と言う題名ながら、実際に芝浜が描かれるのはこの場面だけであり、非常に重要な見せ場と言えよう。
これには極めて高レベルの実力が噺家にも聴き手にも要求される。
CFDは現在の東京都港区東部の田町駅のJR線路沿い(浜松町側)である。2006年に高級マンションカテリーナ三田タワースイートが建てられた。隣接する鹿島神社は現存。元々、新橋-横浜の鉄道は海岸線沿いに敷設されたことはよく知られている。つまり、線路がある場所が浜なのであった。実際には海岸線に堤防を作りその上を線路としたものである。三代目三木助が現役で芝浜を演じはじめているころは当地に浜や海岸線の痕跡がまだあった。東京オリンピック以降に埋め立てが加速度的に進み、痕跡が完全に消えたのだ。三木助ファンは消え行くその光景をも懐かしがっていたのだといえる。芝浜の近辺に限ると、海が食い込み、海が残っていた。つまり、線路の内陸側にも海が残り、その上を跨ぐように線路が橋のようにして作られていた。JR(国鉄)はこの橋を雑魚場架道橋と呼んだ。内陸側に残っていた海は、1968年に埋立てられ陸地となり、港区立本芝公園(芝公園とは無関係で全く別の場所にある。)となった。その中に魚市場(雑魚場)旧跡を示す碑がある。これはあくまでも記念碑でしかない。この場所はもとは海の中であり、雑魚場そのものは存在し得ないからだ。
三代目三木助は、暉峻康隆の助言により、冒頭に「明ぼのや しら魚しろきこと一寸」という句を挟むという独自演出をした。松尾芭蕉の句である。
物語は、実力がありながら仕事に身を入れず、酒でいったん身を持ち崩した男が、一念発起し仕事に身を入れて見事に立ち直る、というストーリーとなっている。これは三代目桂三木助の実像とオーバーラップする。もっとも三木助の場合は酒でなく、博打であるが。三木助個人に対して思い入れがあればある程、本作で感動することになる。
三代目三木助はこの演目で1954年の芸術祭奨励賞を受賞した。
消費者金融の実演はCD(レコード)の形で複数遺されているが、「録音に残っているものは短縮型の不充分な口演で、(録音を前提としない)実演は数段上であったように思う」という評がある(京須偕充『芝居と寄席と』)。本作・芝浜は長時間を要する話だが、ラジオ番組には時間の制約がある。三代目三木助はNHKの専属落語家だった。残されている録音の多くはラジオ放送用の収録をもとにしたものだった。
人類は夢を見ることで、想像力を掻きたてられ、時には妄想と非難されながらも夢を追い続け、実現を試みてきた。また手近なところでは夢の実現のために宝くじやギャンブルで「夢を買う」行動をとることがある。予期せぬ金を手にしたとき何に使うか、金額の多寡により現実的な使途からはじまり、 生活費の足しにする、頭金にする、焦げついた借金を返済する、海外旅行に行く、働かずに余生を過ごす、出来なかったことを試みる、新たに人生をやり直す等々を考え、使途や想像が現実とかけ離れていればいるほど「夢」は広がり、心地よい。しかし、いつか目覚めてしまうのが「夢」である。
主人公の一日の楽しみは、仲間と酒を呑み、あくせく働かねばならない現実から開放されて心地よい気分に浸ること。思いがけず拾った大金は地道に努力を重ねて得た金と異なり『悪銭身につかず』の喩えの通り、泡銭(あぶくぜに)と化すことが多い。聞き手はごく平凡な主人公が思いがけず大金を手にした行動を馬鹿馬鹿しいと感じながらも頭の片隅では新しい何かを探し求める日常世界と照らし合わせ、他人事と思えぬ主人公と自らを重ねる。
自分が今生きているこの世界は、果たして本当に現実なのか、それとも夢か幻か。あの出来事は現実に起きた事だと確信しているが、明確な根拠や境界はどこにあるのか。
このような世界観は古くから人々の強い関心を引きつけ、古代中国として荘子の胡蝶の夢、翻って現代映像世界ではウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』シリーズ、小説世界では芥川龍之介の『河童』、鈴木光司の『リング』シリーズ、もう一人の自分がどこかにいる並行世界を扱うSF小説の数々のように古今東西を見渡すと虚構と現実の境界を扱うテーマは数多い。また時代劇などでも芝浜から引用した話(例えば悪人の賄賂の大金を勝が偶然拾い、女房が隠すものの悪人にそれが知れ渡り勝夫婦を殺そうとする話など)が使われることが多い。
芝浜は落語がもつ虚構世界の中で想像と現実の境界が実は曖昧であることを訴え、いつかは覚める夢のはかなさと切なさとともに人々に淡い希望を抱かせ、聞き手の共感を呼ぶ。
「実は大金を拾ったのは現実だった。あたしが嘘をついた」と、最後に衝撃の告白をする妻。この妻をどの様な人物として造形するか、これも重要である。
自堕落な夫を見事に更生させる、立派な妻として描かれる場合が殆んどである。それを聴き手は「実に偉い妻だ」「これこそ文句無しに素晴らしい夫婦愛だ」と賞賛する。しかし、この演出法に対しては、「わざわざ更生させる為に嘘をついてやったのだ、と言わんばかりで、その偉ぶり具合が鼻につく」として嫌う意見もある。
これとは正反対に七代目立川談志の型では、告白の時に「騙して申し訳無い」と心から謝罪して涙を流す、偉ぶらない妻として造形する。反骨家の談志らしいアンチテーゼと言える。
柳家権太楼(3代目)は一時期、夫が激怒のあまり釈明を終えた妻を容赦なく殴打するという演出を行い、物議を醸したことがある。